アンカラ城にて 朝食は、ホテル近くの食堂で済ませた。昨夜歩いた道を駅の方向に戻り、駅裏のアタチュルク廟へ向かう。 アタチュルク廟の入口には衛兵が立っていた。ここでパスポートを見せ、手荷物を預ける。厳重な警戒だ。 ゆるやかな坂道を登っていくと、巨大なギリシャ風の建築物が現れた。とてつもなくデカイ。前広場も広い。その広場を囲んでいる回廊は、ちょっとした博物館になっていた。 「アタチュルク」とは、トルコ近代化の父「ケマル・アタチュルク」のことである。トルコ・リラの紙幣にも描かれている。近代トルコの最重要人物だ。 アタチュルク廟の次は、再び旧市街に戻り、アンカラ城へ。城にあがる前に、休憩と昼食を兼ねて食堂に入った。 食後に日本にあてて絵ハガキを書いた。店のおじさんが、日本の文字が珍しいらしく、興味深く僕のハガキをのぞいていた。 アンカラ城は、ビザンティン時代の要塞である。城壁は崩れかかった箇所も多い。 城壁の内側は、アンカラ旧市街とはまた違った、貧しさを感じる街があった。城の頂上付近で、物売りのおばあさんや子供達が群がってきた。みんな手には手編みのレースなどを持っている。 物売り達を振りきって城壁の頂上へ向かって歩いていると、うしろから小学生くらいの女の子と、さらに小さな男の子がついてきた。 女の子は「こっちへ来て」と言い、城壁のてっぺんへ僕を促した。片言ながら英語が話せるようだ。 城壁のてっぺんに登ると、僕にヒマワリの種をくれた。おやつのようだ。それを食べながら、彼女は城壁から見える街を英語で説明してくれた。おやつ付き観光ガイドだ。 一通りガイドが終わると、彼女は小さな手編みのレースを僕に見せた。「買ってくれないか?」ということだ。 値段は3ドル(US)。トルコの物価で考えると高い。 値段からして本来買うべきではないかもしれないが、僕は買うことにした。おやつ代とガイド代込みだ。なにより、彼女のその営業努力に感服である。小さいのにしっかりしている。 財布を見ると、ドルは20ドル紙幣しかなかった。それを彼女に見せると、彼女は紙幣を持って「こっちへ」と言って走り出し、城壁を下った先の駄菓子屋に入った。そして、店のおじさんに20ドル紙幣をくずしてもらい、僕におつりの17ドルをくれた。 アンカラ城の中腹に、公園があった。歩き疲れたので、ここのベンチで寝っころがってしばらく本を読んだ。 地元の男の子が、「ハポン、ハポン」と言いながら僕にチャチャを入れにくる。うるさい。 夕方になって、ホテルのあるウルス地区に戻った。まだ明るいので、ホテルの近くにある「ローマ浴場跡」に行ってみた。昔の姿が想像できないほど崩れた遺跡だが、なぜか独特の情緒があった。 アンカラはステップ気候に属するだけあって、乾燥しているようだ。今日一日歩いたら喉が痛くなってしまった。この喉の傷みは、翌日イスタンブールに戻るとすぐに治った。 |
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着時刻不明 今日は、イスタンブールへ帰る日だ。鉄道の時刻表を持っていないので、何時に列車があるのかわからないが、アンカラに来るときの列車が所要時間約7時間だったので、昼頃の列車に乗れば夜にはイスタンブールに着くだろう。 午前中は、アンカラ城のふもとにある「アナトリア文明博物館」で過ごした。ここは主に、ヒッタイト時代の遺品を展示している。館内では、日本人の団体客を見かけた。思えばアンカラに来て初めて日本人を見た。 |
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博物館見学を終えて、ゲンチリッキ公園をぬけてアンカラ駅へ。イスタンブールまでの切符を買う。値段が行きの列車の半額以下だ。どういうことだ。発車時刻は13時20分。イスタンブール到着時刻は、どこにも書いていないのでわからない。まあ寝台列車ではないので夜までには着くだろう。 発車時刻まで、駅の食堂で絵ハガキを書きながら過ごした。 ホームに出てみて、切符の値段の安さの意味がようやくわかった。車両がボロボロである。ヨーロッパで使い古された車両のように見える。車内はヨーロッパ式のコンパートメント(個室)座席だった。 コンパートメントでは、おじさん3人と同室になった。真ん中に座っていたヒゲのおじさん(全員ヒゲである)は、アンカラの歯医者に行った帰りだそうだ。僕はトルコ語は一切わからないが、彼が言ったことは、なぜかそんな風に理解できた。実際そのおじさんはアンカラの郊外の駅で降りていった。 アンカラの市街地を出ると、コンパートメントは僕ともの静かなおじさんの二人だけになった。 おじさんは、僕の持っているものに興味があるようだ。まず僕が読んでいた文庫本を見せてあげた。おじさんは、全くわからないという仕草をした。本を90度回転させて見ている。縦書きの文字という存在を知らないのだろう。 次にカセットテープのヘッドホンステレオを聞かせてあげた。おじさんは「これは金持ちの持ち物だよ」と言って苦笑した。おじさんにとって、「チェッカーズ」は懐かしくないだろう。 |
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列車は荒涼とした平原の真ん中でしばらく停車した。岩山のふもとに崩れた家が数軒見える。おじさんと一緒に通路の窓から外を眺めた。 数分後、となりの線路をピカピカの車両の列車が通過していった。行き違い待ちだったようだ。おじさんは「あの列車は金持ちの乗り物だよ」と言った。「あの列車に一昨日乗った」などと言えない雰囲気である。 このおじさんトルコ語しか話していないのだが、ゼスチャー付きのためか、何となく言っていることがわかる。エスキシェヒールが近づいてくると、こんなことを話しだした。 おじさんはエスキシェヒールで降りていった。僕のなんちゃって通訳は、あながち間違ってはいないかもしれない。 エスキシェヒールの停車時間は長いようだ。外はすでに日が暮れて薄暗くなっている。ここからイスタンブールはまだまだ遠い。腹が減ったので、ホームの立ち売りからパンとコーラを買った。今日は夕食を食いっぱぐれるかもしれない。 エスキシェヒールからは、若いカップルと同室になった。小声で話す人達で、どこか謎めいている。彼らからリンゴとチョコレートのおすそわけを頂いた。腹をすかせたひもじい旅行者にはこの上ない施しである。この二人は山奥の小さな駅で降りていった。 ついにコンパートメントは僕一人になった。他の部屋もほとんどガラガラである。いったいこの列車は何時に着くのだろう。外は月があかあかと照っている。空腹もピークである。 結局イスタンブール・ハイダルパシャ駅に着いたのは、深夜12時近かった。閉まりかけのキオスクでなんとかパンが買えた。 さて、ここから旧市街に戻るには船に乗らなくてはならない。しかし桟橋の切符売場はすでにシャッターが閉まっている。タクシーを使えば橋を渡って旧市街に戻れるが、ホテルのアテがあるわけではないので、そこまでして旧市街に戻る意味はない。 そんなわけで、今夜は駅から少し歩いたところのアジア側の市街地「カドュキョイ」で泊まることにした。街の食堂は、夜中だというのにおじさん達でにぎわっている。火の通ったもので腹を満たせたいが、今日は疲れたのですぐに寝たい。 適当に安そうなホテルを選んで中に入った。フロントのまわりは結構にぎやかだ。シャワー・トイレは共同で、部屋には洗面台とベッドだけがある。寝るだけだからこれで十分だ。しかし、洗面台の水道をひねったら最後、止まらなくなったのには参った。ベッドも背中にスプリングをモロに感じる。まあ眠ってしまえば関係ない。 |
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